ギフテッド仮免許中

45才で判明したギフテッドアダルトが思いついたことを書きます。

草間彌生美術館

草間彌生美術館へ行った。
長らく苦手なボツボツだったが、実際に行ってみてみるとそこまでの圧迫感は無かった。自分にはない事がわかったからだろう。

私は長いこと統合失調症になるのではないか、という恐怖感を時折感じた。今まで私にその兆候があったわけでもないし身近にその病気になった人もいない。が、自分や父親を見ているとどことなく違う風に思えていたので、もしかすると、とは思っていた。だが杞憂に終わっている。どことなく自分は人と違う感じがしていたが統合失調症ではない事がわかったからだろう。それまでは草間彌生氏の作品を見るとあちらの世界に引き込まれそうで、自分の中のあちらの世界が引き出されそうで怖かった。その意識があって忌避していたのだろう。

草間彌生美術館5Fは、何冊かの本や画集がおいてあり自由に見ることが出来る。
その一冊の画集を手に取ると草間氏と誰かの対談が書いてあった。対談相手は草間氏を美術史の中に位置づけようと色々な方面から草間氏に攻め込むが、ことごとく無意味な攻撃とあいなる。草間氏の作品は美術史の中にあるのではなく自分の中から湧き出るものをそのまま表現しているだけで周囲は出発点からして違う。
イズムもないし、誰がどうした、も考えたこともない。NYに渡ったそこには5000人のアーティストがいたけれどなんとも思わなかった、という。
自分が出発点になっているから、そうなのだろう。美術史の流れの中で孤立しているのでもなく草間彌生草間彌生なのだろう。
恐らく山下清氏が同じだろう。

技術を美術学校で習ったり賞をもらったりしていても、その心の出発点が違えば方向もなにもが違うのである。

自分で自分の世界を表現している、それが草間彌生なのだろうと思った。

氏は、今も昔と同じように幻視があるようである。氏は症状を良くするために見えている世界を作品に作り出しているという。作品療法であると語っている。読んだ対談の中では、草間氏がNYにいるときに精神科にかかっても全く良くならないし、よくなりたいと思って通ってもその情報もない、と氏の発言があった。氏は良くなろうとしていたのである。
あの作品たちも、良くなりたいという症状から逃れるためであり、もし良くなったらその時点で作品は生み出されなくなるのだろう。

人は自分自身で生きていかなければならない。