ギフテッド仮免許中

45才で判明したギフテッドアダルトが思いついたことを書きます。

どう生きるか

子供の時と同じだ。
何をすればいいのか分からない。今しているものが直接したいものにはなっていないのは分かっている。

ただ楽しいことをするのは駄目なのか。それはただゲームをしたり本を読んだりすることだ。
もしこれで良いのであれば、このような疑問は浮かばないだろう。疑問があるということは違和感を感じているということだ。
だから今、私が感じている「ただ楽しいことだけをする」のはダメだ。

では何をすればよいのか。
今していることに力を尽くすことだ。尽くしていないから、どうすればいいのかという思いが出るのかもしれない。

やっていくうちに見えてくるものなのか。
それとも何かと偶然の出会いがありそこで才能が花開くのか。
やはり才能を活かしたいものである。

しかしその才能がどこにあるのかは分からない。絵の才能など分かりやすいものであれば良いのだが。だがゴッホのように才能があっても、それに気付かないこともある。

自分の才能にあったものを探すために数撃ちゃ当たる式に色々試すのは、効率が悪い。もっと近道はないものか。

ストレングスファインダー、MBTI、WAIS4などの検査である程度方向づけられるであろうが‥

一番良いのは今までないものを自分で切り開いていくことだよね。

ヒューマン・ファクター

ヒューマン・ファクターを読んでいて途中で思ったのは、映画化は難しいだろうな、ということだ。イギリス人らしい行間の間のあるセリフ、転回、心理描写が映像でどのように表現するのか?恐らく難しいだろうと思う。

スパイ小説は読んだことがないのでわからないのだが、この本はスパイ小説ではなく、ある男の機微をスパイ小説の形で表したのだろう。

私が読んだのは新訳だが解説では触れられていなかったが、主題の一つに孤独=箱があるはずだ。

皆、箱の中で生きている。この社会は1m四方の箱が連なっているのである。
自分の周りに箱があることに気づいた時、孤独を感じるのである。

本来、人はその心を磨き続けると、孤独になっていく。その人が自分自身の頭で考え様々な事を体験し、あるときは苦しみ、あるときは楽しむ。このようなその人固有の体験があればあるほど、この心の特徴が際立ちある種の孤独感が増す。ユニークさがあればあるほど、人とは違っていく。

私がこの本を読んだきっかけは藤沢周平氏のエッセーに出てきたからだ。

『ここ数年の間に読んだおびただしいその種の小説の中で、記憶に残るものはといえば「ヒューマン・ファクター」一冊にとどめをさすのである』
グレアム・グリーン」小説の周辺

氏の作品も人情の機微が主題である。
主に侍ものがそうだが、その規矩の中で全うしていく武士の姿があり、そうせざるを得ない、そうすべし、という生き方を強いられる人格を描いており、最後の最後で規矩から解き放たれて本来のキャラクターを回復する。
藤沢周平氏の作品の主人公たちは影があるものの本質的に孤独ではないが、ヒューマンファクターでは過去・現在・未来と全面的に孤独である。

藤沢周平氏の作品からはどうしようもない孤独は感じない。

草間彌生美術館

草間彌生美術館へ行った。
長らく苦手なボツボツだったが、実際に行ってみてみるとそこまでの圧迫感は無かった。自分にはない事がわかったからだろう。

私は長いこと統合失調症になるのではないか、という恐怖感を時折感じた。今まで私にその兆候があったわけでもないし身近にその病気になった人もいない。が、自分や父親を見ているとどことなく違う風に思えていたので、もしかすると、とは思っていた。だが杞憂に終わっている。どことなく自分は人と違う感じがしていたが統合失調症ではない事がわかったからだろう。それまでは草間彌生氏の作品を見るとあちらの世界に引き込まれそうで、自分の中のあちらの世界が引き出されそうで怖かった。その意識があって忌避していたのだろう。

草間彌生美術館5Fは、何冊かの本や画集がおいてあり自由に見ることが出来る。
その一冊の画集を手に取ると草間氏と誰かの対談が書いてあった。対談相手は草間氏を美術史の中に位置づけようと色々な方面から草間氏に攻め込むが、ことごとく無意味な攻撃とあいなる。草間氏の作品は美術史の中にあるのではなく自分の中から湧き出るものをそのまま表現しているだけで周囲は出発点からして違う。
イズムもないし、誰がどうした、も考えたこともない。NYに渡ったそこには5000人のアーティストがいたけれどなんとも思わなかった、という。
自分が出発点になっているから、そうなのだろう。美術史の流れの中で孤立しているのでもなく草間彌生草間彌生なのだろう。
恐らく山下清氏が同じだろう。

技術を美術学校で習ったり賞をもらったりしていても、その心の出発点が違えば方向もなにもが違うのである。

自分で自分の世界を表現している、それが草間彌生なのだろうと思った。

氏は、今も昔と同じように幻視があるようである。氏は症状を良くするために見えている世界を作品に作り出しているという。作品療法であると語っている。読んだ対談の中では、草間氏がNYにいるときに精神科にかかっても全く良くならないし、よくなりたいと思って通ってもその情報もない、と氏の発言があった。氏は良くなろうとしていたのである。
あの作品たちも、良くなりたいという症状から逃れるためであり、もし良くなったらその時点で作品は生み出されなくなるのだろう。

人は自分自身で生きていかなければならない。

過ぎる日々

朝出勤の時に時々すれ違う人がいる。その人は車椅子に乗って公共施設に出勤している、らしい。すれ違うときがその施設の前だから、そうだろうと思う。

池袋で車椅子で出勤している人は以前もいた。その方は駅近くのホテルを家代わりに使っているようで毎朝同じ時刻にホテルのスタッフが車椅子を押していた。行き先は池袋駅近くの公共施設だ。障害のある方にとって出勤や生活が大きな障害になるはずで、それらを解決するために勤務先のすぐ近くのホテルに住むという方式は、何かと便利なのだろう。この車椅子の方は、最近見ない。

時々すれ違う方の車椅子は電動で、右手の先でスティックで移動を制御するものだ。最近その方は、首をかしげて乗っている。

どこから出勤してきているのかは分からない。

古文・漢文を読むための勉強

私は、学生時代に勉強をほとんどしなかった。小中高と学校にはいっていたけれど、小学校の中学年〜高学年には勉強に追いつけなくなったので、授業中はぼーっとしていた。

だから大学には行けなかったし、一応受験はしたけれども受験日前日も図書館で火の鳥などの漫画を読んでいたくらいだ。これは高校受験でも同じだった。
もちろんこんな学生を受け入れてくれる高校の偏差値レベルは低いのだったが楽しい学生生活を送って卒業することが出来た。

その後社会に出たが、幸いにも学歴で困難に感じたこともない。逆に学歴のおかげで幸運を手にすることも無かったが。

というわけで20才頃から社会に出てからというものの学校の勉強をすることは一切なかった。

だが私の心の中には「勉強が出来ない。努力ができない」というコンプレックスという程ではないがわだかまりが出来ていた。
時折学校の勉強に類することをしてみたことがある。20代は海外で仕事をすることも合ったので、英語の勉強らしいものをしてみたり、30代中頃には数学を勉強しようとしていた。(もちろん独学である)

だがそれらはすべて半年は持たなかった。

40代中頃になってGACCOというオンライン学習プラットフォームで統計を勉強しようと志した。
最初の概論は理解できるものの具体的な計算をする頃になると用語の意味がわからないようになってきた。その意味を調べると、さらに説明文が理解できない。その説明を調べていくと…どんどん遡って小学生の算数にまで遡った。

その中で出会ったのが東条時明氏の「大人になってからの勉強」というページである。氏は本当に大人になってから小学生の勉強からやり直し、大学院にまで通えるようになった現代の立志伝的な人物である。

このページを読み、ここで一念発起して、小学生の算数を志したのである。

大人になってからの勉強
11 小学生レベル 書籍まとめ(国・数)
https://study4future.jimdofree.com/2015/12/29/%EF%BC%91%EF%BC%91-%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E7%94%9F%E3%83%AC%E3%83%99%E3%83%AB-%E6%9B%B8%E7%B1%8D%E3%81%BE%E3%81%A8%E3%82%81/

半年間の結果、私の算数レベルは小学校4年生相当だという事がわかった。日能研(みくに書店)の1095という算数の問題集を1年生のものからやってみると5年生で躓いたのである。4年まではスラスラ解けるし、始めは多かった計算ミスも三周すると誤答率が数%にまで落ち成果を見ることが出来た。

ただ5年生で途端に難しくなった。
ここで私の算数へのチャレンジは止まってる。

その後の半年は、仕事をしつつ本を読む、という生活をしていたが、またムクムクと勉強へ目が向いてきた。
今度は漢文である。
若いときに強烈な刺激を受けた「韓非子」を読もうというのである。

さっそくアマゾンで注文する。本文は、白文、読み下し文、現代語訳があり、読むことはできる。が私の希望は白文で読むことだ。
白文で読めないことが分かったので、さっそく漢文の勉強法を調べる。参考書を三回回せと、そのページには書いてある。

漢文句法レベル1・2・3・4・5|漢文句法はこの1冊で決まり!『漢文ヤマのヤマ』の攻略法
https://daigakujukensenryaku.com/ka-cur-kanbunkuhou/

さっそくメルカリで注文し、三回回すもののすっかり忘れていて覚えていない。また書き下し文にするときに、単語の活用が全く理解していおらず、適切な活用の選択が出来ない。
これは文法を何もしなかったことが原因だ。

漢文は、白文→レ点をつける→書き下し文(古文)→現代語訳というふうに何段階も翻訳を繰り返して初めて読むことが出来る。

という訳でまた遡っていくと、小学生の文法である「こそあど言葉」にまで遡ることが分かった。

今、私は小学生の国語から勉強をし直しである。

中学受験を志している長男に遅れること数年の勉強をしている事は内緒だ。

 

自分が何なのかわからない


別に統合が失調してしまったわけではないが、相変わらず自分のアイデンティが自分の中で定まってない。
以下のエントリでも自分のアイデンティが定まりきれていない思いが溢れている。

https://gifted-karimen.hatenablog.com/entry/2021/07/21/184413

ギフテッドかどうか?ということだ。
ギフテッドだと分かったところで何も変わるわけではない、と人は言うだろうが、そう確定したら自分自身の軸ができるのは確かだ。アイデンティを確立したいのだ。

むろんギフテッドの診断が出るわけではない事は分かっている。ただ自分がギフテッドだと表に出せている人が羨ましい。IQが高いから羨ましいとかそういうことではなく自分自身の軸があること(第三者からはそうみえる)が羨ましい。

またギフテッド界隈には自称ギフテッドという人がいるようで、恥ずかしくて自分からギフテッドと人には言えないし、自分でもそうだと思いきれない事がある。

「普通の人でしょ(笑)」と言われるのが怖いのだ。

まず確実なのは、私自身ギフテッドに対しての理解が至ってないのだろう。結局IQやOEの有りなし、実績というもので見てしまう。

ではどうしたらいいかというと実際にギフテッドの人たちに合うことを重ねて、色々と話しをしてみるしかない。

ブログを書いてて思うこと

ブログを書いている人が年々ツイッターに移ってブログが更新されなくなってきている。もちろんツイッターとブログとnoteなどを使い分けている人もいるけど、大部分はツイッターに移行している。

ツイッターでは読むかもしれない人と場を共有している前提があるので細かいことは書かないで、思ったことだけを書けるし、これを重ねていくことで場が出来上がり移り変わっていける。

ブログでは未知の人が読むことを想定して前提条件から終わりまで一通りフルスペックで確定情報として書くことが多いので、後で見返しても理解可能な完結した情報になりやすい。

ブログでは属人的だが、ツイッターは属クラスター的だろう。

どっちがいいということもなくどちらもいいのだろうが、過去の情報を見る場合はブログやnoteは情報がひとまとまりになっているので読みやすい。

文章を書いてて、古臭いやり方しかできないんだな、と思う。